サーフィンは2020年の東京オリンピックで初めて五輪競技となるほど世界的なスポーツとなっています。では、これがホノルルのカラカウア通り、ワイキキビーチとクヒオビーチの間にあるデューク・カハナモクの像とどのような関係があるのでしょうか?
デューク・パオア・カハナモクとは?
デュークは現代サーフィンの父と言われています。もし一人の人間がハワイとその文化を象徴することができるとすれば、それはまさにデュークであると言っても過言ではありません。ハワイを訪れる多くの人々が彼の銅像を「巡礼」する聖地ともなっています。
デュークと名付けられた純血ハワイ人である彼は、幼い頃から水辺で泳いだり、「パパ・ヌイ(大きな板)」と呼ばれる伝統的なサーフボードでサーフィンをしたりして過ごしていました。ガラス繊維や複合材料ではなく、彼のサーフボードは長さ4.8メートル、重さ52キロ、ハワイアンコアという木製のロングボードだったそうです。
デューク・カハナモクのオリンピックでの活躍
1912年のオリンピックでは、アメリカ代表として100メートル自由形で金メダル、4×200メートル自由形リレーで銀メダルを獲得しています。しかし、第一次世界大戦の影響で1916年のオリンピックが中止となり、同じ2種目で金メダルを獲得するまでにはさらに4年の歳月を要した。1924年のパリオリンピックでは、34歳のデューク選手が100m自由形で銀メダルを獲得し、弟のサミュエル選手が銅メダルを獲得しました。このレースで優勝したのは、皆さんもご存知のジョニー・ワイズミュラーでした。ワイズミュラーは、後年、昔の白黒映画でターザンを演じて有名になりましたが、彼の独特のうなるようなジャングルの叫び声は伝説となっています。
サーフィンを世界に広めたデューク・カハナモク
ハワイといえば何のスポーツや娯楽を思い浮かべますか?きっと、サーフィンと答える人もいるでしょう。オーストラリアやカリフォルニア州出身の人々にお気に入りのウォータースポーツを聞いても、サーフィンと答える人が多いかもしれません。しかしこの3つの地域に限らず、サーフィンの人気を高めたのはデューク・カハナモク、この人なのです。1912年の夏、デュークはカリフォルニアの人々にサーフィンの素晴らしさを伝えることに奮闘しました。また1914年12月には、シドニーのフレッシュウォーター・ビーチで開催されたハワイアン・サーフィンを広めるセレモニーで圧巻のパフォーマンスを披露しました。このようにデュークは、オーストラリア、アメリカ、ヨーロッパでサーフィンを広めることに貢献したのです。
デューク・カハナモク - 元祖ビッグ・カフナ
ハワイ語の「カフナ」とはハワイ先住民の伝統的社会で、様々な分野の専門家を意味する言葉です。1925年6月、デュークがカリフォルニア州のニューポート・ビーチに住んでいたとき、海が荒れて港に入ろうとした漁船が転覆してしまいました。デュークはサーフボードをつかんで海岸と転覆した船の間を何度も往復し、何人もの漁師を救出しました。この時の彼の活躍はニューポートビーチの警察署長によって「世界が見たこともないような超人的なサーフボードによる救助活動」と評されました。この救助活動が広く知られるようになってからは、全米のライフガードが海での救助活動にサーフボードを使用するようになりました。彼の英雄的行為により、デュークは「ビッグ・カフナ」というニックネームを与えられたのです。
ハワイのデューク・カハナモク像
これで、ハワイにおいて「偉大な存在」であったデュークのことを少しは理解していただけたでしょうか。ハワイを訪れる人々にとって、人目を引くデューク像を訪れることは、最も人気のある観光のひとつです。しかしこの像には見た目以上のものがあるのです。世界的に有名なこの人物の後ろには、同じように印象的なブロンズ製のサーフボードが置かれています。この銅像は、カリフォルニア州の芸術家であり教授でもあるジャン・ゴードン・フィッシャーが制作したもので1990年に建立されました。手を広げたデュークのブロンズ像はいつでも観光者を優しく迎え入れてくれます。またオーストラリアのフレッシュウォーター、ニュージーランドのクライストチャーチ、カリフォルニアのハンティントンビーチにもデュークの記念像があり、人気を博しています。
ワイキキ・トロリーとデューク・カハナモク像
オアフ島に来たら是非、デューク・カハナモク像に会いに行ってみてください。ワイキキトロリーのチケットを持っていれば、3つのラインどれに乗ってもデューク像を訪れることができますよ。